ふたご



4月だというのに、この2日は妙に寒く、まるで冬に戻ったようですが、東京都心部のトガリアミガサタケ[Morchella conica]の季節はほぼ終わりのようです。


昨年は、トガリアミガサタケとかチャアミガサタケとかアミガサタケとかあまり区別せずに紹介しましたが、今回は、ちょっと区別して・・・・・・


写真は、あまりとがっていないけど、トガリアミガサタケのふたごということにします。





ふたご、といえば、エーリッヒ・ケストナーに『ふたりのロッテ』というお話がありました。


別れた両親が和解してまた一緒になり、わかれわかれになったふたごのロッテとルイーゼも一緒になったあと。



「あたしたちはそっくりなんだから、きっと同じ男の人に好かれるわ。」とロッテはしかつめらしいかおでいいます。


「そしてあたしたちもきっと同じ男の人が好きになるわ!」とルイーゼが大きな声をだします。


「そしたら、あたしたちふたりは文句なくその男の人と結婚するわ! それがいちばんいいわ。月、水、金はあたしがその人の奥さんになるの! そして、火、木、土はロッテの番なの!」


  ・・・・・・


パルフィー夫人(二人の母親)は微笑していいます。「一日おきにわけられるのにも、いいところがあるわ! そのかた、日曜日はお休みよ!」


でも、本当のことを言うと、上のトガリアミガサタケの「ふたご」は、「ふたご」というにはあまりに似ていません。


ポール・ヴァレリーは、「ドガ・ダンス・デッサン」の中で、風景画について、次のように言っています。



我々の目は樹とか野原とかに対して、生物に対するほど敏感ではないために、画家は専らそれらを描くのによって比較的勝手な真似ができるようになり、その結果として海がにおいてそういう妄りな独断をすることが当り前なこととなった。例えば画家が、一本の木の枝を描くのと同じ乱暴さでもって人間の手や足を描いたならば、我々は驚くのに違いないのである。


「樹」は「生物」ではなかったか? といった揚げ足取りを別にすれば、キノコ観察にひとをつれていったことがあるキノコ好きならば、なるほどヴァレリーのことばに頷くところがあるのではないでしょうか。


そういう私も、きちんと顕微鏡観察をしている人々から見ると、驚愕すべきいいかげんさではあるのですが。