オオチャワンタケとサンゴ



東京都千代田区、都心のど真ん中の道ばたで見つけました。オオチャワンタケ[Peziza vesiculosa Bull.]だと思います。





大きなビルの前に幅50センチくらいで造られた植え込みの中に生えていました。


私はきのこ好きで、山も好きですが、ロマンチックなナチュラリストではありません。したがって、「こんな狭い都会の片隅に、よしよし、いい子だ」と感動し、パリの屋根裏で赤貧にあえぎながらトリビュラ・ボノメを書いたヴィリエ・ド・リラダンを思い起こす、などということもありません。


とはいえ、決して戻らないだろう一方的な「開発」や「破壊」を、冷静に危惧することはあります。


オオチャワンタケを見て、思い出したのは、知人から先日メールで回ってきた、沖縄は辺野古の、米軍基地強制開発のことでした。オオチャワンタケをはじめ、いくつかのきのこは、ある種のサンゴに似ています。


辺野古について事情を紹介しているページとしては、たとえば、こんなところがあります。末尾には、抗議メッセージの送り先もリストされています。背景としては、こちらで私は辺野古のことを知りました(同じ「はてな」)。


何よりも、次のように語った地元漁民の方の言葉が、頭に残っています。



「あの沖縄戦がおわったとき 山は焼け 里も焼け 豚も焼け 牛もやけ 馬もやけ 陸のものは すべて焼かれていた 食べるものと言えば海からの恵みだったはず その海への恩がえしは 海を壊す ことではないはずだ」


個人的には、ロマンチックなナチュラリズムは、ハリウッド映画などでロマンタサイズされたミリタリズムなどに案外通じてしまうのではないか、という思いがあります。


それに対して、上の言葉は、生きること、楽しく、明るく、かつ冷静に即物的に、そして徹底した唯物論が逆説的にも観念論に近づくように幸せに(ロマンチックな意味ではなく)生きることを、モノとして指し示しているように感じられます。